歴史
HISTORY

杉原紙の歴史

杉原紙発祥の地石碑

播磨は製紙先進国

播磨国(現在の兵庫県南西部)には、奈良時代から優れた造紙技術があったことが知られています。
天平9年(737年)の正倉院文書『写経勘紙解』に「播磨経紙」の名がみられ、それ以降にも「播磨中薄紙」「播磨薄紙」など播磨の国名を冠した紙名が数多く登場します。天平16年(744年)には1万枚、同18年には1万7千枚もの注文が播磨国に出されたという記録も残っています。この時代、全国には紙を漉く国が20近くありましたが、播磨がその中でも有数の紙の産出国であったことが伺えます。
昭和35~36年に行われた正倉院の紙の調査において、天平18年(746年)に播磨国司から提出された『播磨国正税帳』に用いられている紙は、他産地のものに比べはるかに進んだ技術であったことが報告されており、播磨紙の優秀さを明らかにしています。

杉原紙のルーツはこの地なり

多可町の北部・杉原谷で生まれたとされる「杉原紙」は、こうした古代の播磨紙の技術や伝統をもとにした和紙であると推定されています。
杉原紙が文献上に初出するのは、関白・藤原忠実の日記『殿暦』の永久4年(1116年)の条。忠実が、自分の娘と息子それぞれに家宝の調度品とともに「椙原庄紙(すぎはらしょうのかみ)」100帖を贈ったと書かれています。藤原家代々の家宝に添えて贈った紙ということは、このときの杉原紙は最高級のものであったことが推測されます。
なお、当時の杉原谷は藤原摂関家の荘園で「椙原庄」といい、この地で漉いた紙が「椙原庄紙」と呼ばれたと考えられています。(「椙」は、のちに「杉」に変化していきます。)
以上のことから、杉原紙の原点が播磨紙とつながっていると考えられています。

杉原紙和紙

武士から庶民まで広く愛された杉原紙

平安時代、京都を中心に使用されていた杉原紙の最も多い使いみちは、1束1本の贈答や献上品とされたことです。鎌倉時代になると東国にも進出し、幕府の公用紙にも使われはじめると、次第に武家社会全般に普及し、「武士は杉原紙以外の紙に文を書いてはならない」とされるようにさえなりました。
室町時代中期以降はさらに需要が増え続け、杉原谷だけでは生産が追い付かなくなり、コウゾを用いて杉原紙に似た紙が全国で漉かれるようになりました。国名を頭につけた「〇〇(産地)杉原」という紙が全国に出回り、「杉原」と言えば「杉原紙」のことを示すほど、杉原紙は和紙を代表する商品名の一つになりました。
江戸時代になると、庶民の日常生活にも広く使われるようになり最盛期を迎えます。その中においても、献上品などの格別の高級品は、杉原谷においてのみ漉かれていたということです。
多可町内には杉原紙を漉いていたところが他にもあります。現在の八千代区大和地区にあたる三原谷がそうです。杉原紙の急激な需要に応じて室町時代末期には漉かれており、「三原紙」とも呼ばれて盛んに生産されていました。

徐々に衰退

隆盛を誇った杉原紙も、18世紀をピークに徐々に衰退の途をたどることになります。
明治維新以降、産業転換が進むと、製紙よりも収益率の高い他産業に職を転じる人が増え始めます。また人工造林事業が盛んになるにつれ雑木林の面積が次第に減少したため、原料のコウゾが地元で自給できなくなり、他産地から買い付けなければならなくなりました。その結果、輸送費用が発生し生産コストが高くなったため、採算割れをする製紙業者が出てきました。
さらに衰退の拍車をかけたのが、ヨーロッパで発明された機械による製紙法が日本に上陸したことです。洋紙産業が本格化し、和紙に替わるものとして一気に普及すると、全国的に手漉き和紙は生産を激減し、杉原谷においてもその影響をまともに受けることとなりました。三原谷においては、明治の終わりには全廃してしまいます。

ついに杉原紙の灯が消える

コウゾでの生産が窮地に追い込まれていたとき、製紙業者は杉桧林の木陰でも成長するミツマタを原料にした半紙を大量生産し始めました。一時は活気のある紙漉き村によみがえったかのように思われましたが、長くは続きませんでした。
それでも細々ながら祖先から受け継いだ杉原紙の伝統を守り続けていましたが、それも1軒減り、2軒減り、とうとう大正14年、杉原谷での紙すきの永い歴史は幕を閉じたのでした。

杉原紙の天日干し

杉原紙の復元

幻の紙「杉原紙」を再び世に出していただいたのは、壽岳文章氏の和紙研究に始まります。
昭和15年8月2日、和紙研究会のメンバーであった壽岳氏と新村出氏(いずれも故人)が杉原紙のルーツを求めて杉原谷村を訪れられました。そしてその後に、杉原紙がこの地で漉き出されたことを実証してくださったのです。このことにより町内の郷土史研究家・藤田貞雄氏(故人)が深く感銘され、以後独自の研究をされました。
日本が高度経済成長を果たした昭和40年頃、このような輝かしい歴史をもつ名紙・杉原紙を顕彰しようとする動きが起こりはじめます。有志による和紙研究会が立ち上がり、昭和41年に題字が新村氏、撰文が壽岳氏による『杉原紙発祥之地』碑を杉原谷小学校内に建てられました。同45年には、藤田氏が30年をかけて研究された集大成『杉原紙 播磨の紙の歴史』を出版。また同年、大正末期まで紙を漉いていた宇高弥之助翁による約半世紀ぶりの杉原紙の紙漉きを再現することに成功しました。
そして、昭和47年に町立の施設・杉原紙研究所を設立して本格的な紙漉きを再開することとなりました。

復元後のレポート

杉原紙研究所設立当初は、道具も技術も皆無に近い状態から再興しなければなりませんでした。紙漉き道具を廃業されたところから譲り受けたり、原料となるコウゾを他産地から買い付けるなどしながら紙漉きを始めました。京都の黒谷和紙の技術指導の応援も受け、研究員数名は試行錯誤を繰り返しながら日々努力に励みました。そして、さらなる研究を重ねた結果、昭和58年には兵庫県の重要無形文化財の認定を受け、平成5年には兵庫県伝統的工芸品に指定されるまでになりました。
コウゾは、地元有志に栽培をお願いして徐々に栽培面積を増やしていき、さらなる自給率アップを目指して、集落や老人会といった団体でも栽培に取り組んでもらうようにもなりました。そして町づくりグループの協力のもと、平成7年からは全国で珍しい町民全世帯参加による「1戸1株栽培運動」を展開しました。今では、ほぼ地元産で賄えるほどになっています。
現在も、杉原紙を生産しているのは杉原紙研究所1軒だけです。しかし、地元住民の多大なる協力により多くの愛用者ができ、途切れることなく紙漉きの業を営むことが出来ています。
研究所発足当時の町長が提唱した「小さな町の大きな文化事業」が一つの形となり、現在に至っています。これから先もかつての賑わいを取り戻すべく、この町の誇りとなるよう漉き続けていきます。

歴史年表

杉原紙の紙すき工程
杉原紙の紙すき工程2
杉原紙の川さらし
奈良時代 8世紀前半の播磨国には、優れた造紙技術があったことが知られている。
杉原紙の発祥年代は不詳であるが、古代播磨紙の技術をもとにして生まれた紙と推定されている。
平安時代 多可町北部・杉原谷は、藤原摂関家の荘園となり『椙原庄』と呼ばれ、この地域で漉いた紙を『椙原庄紙』と言われるようになった。(「椙」はのちに「杉」に変わっていった)
鎌倉時代 幕府の公用紙に用いられる。
室町時代 杉原紙の需要増加に伴い、杉原谷だけでなく『◯◯(産地)杉原」という名の杉原紙が全国で漉かれた。
江戸時代 庶民の日用生活にも広く使われるようになる。
明治時代 明治維新後に産業転換が進み、機械の技術や輸入紙が普及したため、手漉き和紙業者の数が減少し始める。
1925年
大正14年
杉原谷においての紙漉きが休止する。
1940年
昭和15年
和紙研究家・寿岳文章先生と新村出先生が、杉原紙のルーツを求めて杉原谷を訪れる。のちにこの地が発祥の地であることを明確にされる。
1965年
昭和40年
地元有志による「杉原紙研究会」が発足。杉原紙についての調査研究が始まる。
1970年
昭和45年
大正期最後に紙を漉いていた宇高弥之助翁による約半世紀ぶりの杉原紙の紙漉きを再現。同年、郷土史家・藤田貞雄氏による杉原紙の歴史を詳しく記した『杉原紙 播磨の紙の歴史』が刊行される。
1972年
昭和47年
町立の「杉原紙研究所」が設立され、本格的な再興に乗り出す。
1983年
昭和58年
「兵庫県重要無形文化財」に認定される。
1985年
昭和60年
「ユニバシアード神戸大会」の表彰状として、世界152か国の若者の手に渡る。
1993年
平成5年
「兵庫県伝統的工芸品」に指定される。
1994年
平成6年
コウゾの1戸1株栽培運動が始まる。
1995年
平成7年
「第1回杉原紙年賀状コンクール」(亥年)が開催される。
1996年
平成8年
研究所が現在の位置に新築される。
1997年
平成9年
「全国手漉き和紙青年の集い加美大会」が開催される。
1998年
平成10年
「かみのかみまつり」が開催される。
2000年
平成12年
和紙博物館「寿岳文庫」がオープンする。
2001年
平成13年
「杉原紙に魅せられた作家展」が開催される。
2002年
平成14年
「紙匠庵でんでん」がオープンする。
2006年
平成18年
「のじぎく兵庫国体」の表彰状として使用される。
2015年
平成27年
「展示・体験工房」がオープンする。
2016年
平成28年
「全国手漉き和紙青年の集い杉原紙大会」が開催される。
2018年
平成30年
「杉原紙シンポジウム」が開催される。